みどりテラスはことばの学校
おれは、ボブお。こう見えても、ライオンのはしくれだ。
赤ちゃんの頃から、この巨大な団地の、最上階の小さな角部屋で、ニンゲンと暮らしている。エレベーターがなく半世紀を超えたこの古びた建物は、近く大規模なサッシ工事が入るという。つまり、それは延命措置を意味し、建て替えなんていうのはまだまだ、先のことだ。周りの住人を見回すと、平均年齢はゆうに65歳を超えているだろう。毎朝、どこかしらの住居棟の前には、デイサービスの送迎車が停車している。その合間をぬうように生協の配達トラックがかけまわり、週に1度は救急車のサイレンが大きな音をうならせる。
おれのお気に入りの場所は、我が家のベランダ、通称、”みどりテラス”だ。数百を超える棟がひしめき合うこの団地なのに、たまたま、このみどりテラスからの眺望は悪くない。刻一刻と形を変える雲を上に眺め、風に揺らぐ林を下に眺める。耳には、さまざまな鳥の声。つい先日は、木々の合間をぬうように、キジが歩いていたのを見た。春のそれとはちがい威嚇を感じない鳴き声で、まるで探しものをしているかのようにさまよっていた。
さらに、ニンゲンたちの生活する音もそこに交じる。トラックのエンジン音、カン・ビンごみがぶつかる音、反響する夕方のチャイム。お隣の老夫婦のおうちから聞こえる、大きすぎるテレビの音。日常の暮らしが、そこにある。
おれは、みどりテラスでひなたぼっこをしながら、いろんなことを覚えてきた。ニンゲンと暮らすライオンだから、サバンナで暮らす野生のライオンとは、わけがちがうんだ。サバンナのライオンのことは、知らない。生まれたときからニンゲンが常に隣にいて、おのずと、おれもニンゲンのことばを覚えて、ニンゲンと会話をするようになった。
ニンゲンっていうのは、ことばをたくさん知っているように振る舞うけれど、おれの経験から言わせれば、ライオンだって、ニンゲンと暮らせばことばは身につくものだ。その証拠に、おれはいっぱしのことばを使えるようになったと、思っている。おれは、おれの感じたそのものを、どうやってニンゲンに伝えたらいいのかなって、その練習を、このみどりテラスでやっているのだ。そうすると、おれと暮らすニンゲン(名前をリン、という。おれはリンくん、と呼んでいる)も、さらにことばが上手になるだろう、そう思っている。毎日、毎日、おれはリンくんに話しかけ、リンくんもおれに話しかけてくる。ときどき、話しかけているのかどうか、わからないときもあるけれど、とにかく、おれとリンくんとは、朝起きて夜寝るまで、ずっと何か、ことばを交わしている。
ことばを使えるようになったのはいいのだけれど、どうやらことばっていうのは難しい側面もあるようだ。たまに、いや、むしろ、よく、ニンゲンがやらかす、無自覚なことばはニガテだ。それと、ことばの箱だけがあって、なにやら知ったようにものごとを決めつけるのも、ニガテだ。それから、何か伝えなくちゃいけないことがあるのに、おし黙ってる、そんなのもニガテだ。だいじな時間をだいじなオハナ(家族)と過ごすのに、ことばはとってもいいものだと知っているから。だから、ことばをできるだけ、いいことに使いたい。あのね、ライオンのくせに、って思ったでしょ?ううん。ライオンだからね、本来ことばを使わなくてもいいはずのライオンだからこそ、気がついちゃったんだよ。へへん。
そう思うのに。うちのリンくんだって、よくやらかしている。そんなとき、おれは、リンくんをこうやって、いさめるのだ。
「なぁ。リンくん。ちゃんと、してよね。」
そうすると、リンくんは、おとなしく、ハイ、と応える。一旦停止ボタンが押されて、アタマとことばが繋がってないときは、そこでケーブルをつなぎ直す。ココロは?そう。ココロと、アタマと、そしてことばが繋がって、ようやく、ことばとは威力を発揮するのだと、おれは思うな。
おれはリンくんの腕にぎゅっと抱っこされて、いつでも離れない。離れないからといって、ことばで何を言っていいわけでも、もしくは、何を言わなくても、いいわけじゃないんだよ。
おれらはそうやって、つながっていくのだ。
「ボブお?」
今日のフシギの雲のかたちを眺めながら、リンくんがおれの名前を呼んだ。
「ん?なぁに?」
みどりテラスはことばの学校。おれとリンくんは、ひとつひとつ、ことばを増やしていく。いつだって、おれとリンくんとは、ことばでつながっているのだ。
「ボブお、かわいいねぇ。大好き。」
はい、リンくん、脈略なし。
でもね、きっとリンくんのなかでは、ココロとアタマとことばが、バチッと繋がったんだろうなぁ。
おれはリンくんにムギュとされながら、みどりテラスの手すりから遠くの雲のひと筋に焦点を合わせて、そのゆっくりとした動きを眺めた。
ボブお