キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅【③長崎市】 ― ころすけの旅日記(五島&長崎編)その5

うっす!こんにちわーに!
旅グマことツキノワグマのころすけでっす。

先月(2026年2月)に5泊6日で訪れた五島と長崎の旅記録を綴る、「ころすけの旅日記(五島&長崎編)」。

「いよいよ、その5まで来たなー!いいぞ!リンくん頑張って書いてるな!」

「そうだよー、撮ってきた写真を編集して、教会やキリシタンのこと調べながら・・・あれやこれや・・・!」

「いいぞいいぞ!ちゃんと読んでくださってるオトモダチのためにも、あんまテキトーなこと書くんじゃないぞ!」

「ハイ・・・。」

というわけで。

ころすけの旅日記(五島&長崎編)その1では五島市福江島に到着したときのお話を、その2では福江島にある弘法大師空海に関する史跡を観光タクシーで回ったお話をしてきた。

そして、その3~4では、「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」と称して、五島市の①福江島②奈留島の教会群を紹介したよ。

5つめのエピソードとして、今度は場所変わって、長崎市内の教会のお話をしようと思うよ。これで「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」は完結編です。

「んー!でもさー、今回の旅、まだまだいろんなテーマが残ってるよなー!ホラ、グルメとかお酒とか!あ、ランタンフェスティバルも行ったしな!」

「うんうん、もちろん。それから、原爆関連のことも。」

うむうむ。おれは相槌を打つ。

「リンくん。いいか?引き続き、『ころすけの旅日記(五島&長崎編)』、精を出して書くよーに!」

「あっ・・・ハイ。精進します。」

その1から読みたい方はコチラ「離島に初上陸 福江島 — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その1」

目 次

「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」

【①五島市 福江島(ふくえじま)】

【②五島市 奈留島(なるしま)】

【③長崎市内】

【大浦天主堂】おおうらてんしゅどう
(長崎県長崎市)

この旅を始めてから4日目。
おれらは五島列島福江島からジェットフォイル(高速船)に乗って、長崎港までやってきた。晴天に恵まれた1時間45分の船旅。

長崎県の中心であるこの長崎市。
港に着いた瞬間、とても不思議な感覚に陥った。港から見回すその街並みは、低山に囲まれて、その斜面にはびっしりと建物が連なっているのだ。

ただでさえ全国でもっとも山のないチーバ県に住んでいるおれ。斜面がこんなにも建物で覆われているというのはなかなか圧巻だった。

「これが長崎市!坂の多い街だとは聞いてはいたけれども、ホントだわ。」

(あいにく、わかりやすい写真が撮れてなかったみたい。うちのリンくんカメラマンもまだまだだな・・・!)

“長崎港ターミナルからみた街”
“長崎港ターミナルに到着!”

そんな長崎市に到着して、真っ先に訪れたのが、大浦天主堂だ。
国宝に指定されているほか、前回説明した世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」の12の構成資産のうちのひとつでもある。

奈留島で訪れた江上天主堂は建物が世界遺産なのではなく、集落全体に価値を認められている。一方で、この大浦天主堂は、天主堂のお堂(教会建物)自体が世界遺産なのだそうだ。

大浦天主堂の遺産としての価値は、まずは日本に現存する最古の教会建築だということ。また、この教会が、潜伏キリシタンの歴史を語る上で重大な出来事が起きた舞台となったということだ。

「幕末の1864年末に完成した大浦天主堂は日本に現存する最古の教会建築として知られ、国宝に指定されている」

p.131、松尾潤『祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界』、批評社、2018年
“大浦天主堂 正面”

「1864年…えーっと、162年前!」

「日本で現存する最古の教会建築だって。ねぇねぇ・・・すごく大きいね?」

「うん、立派だねぇ・・・!」

今回の旅、ここまで五島で7つもの教会を見て回ってきたおれたち。
大浦天主堂はそれらのどの教会よりも古いのにもかかわらず、背も高く大きかった。五島の教会群は民家の集う集落の中にひっそりと建てられていたのに対し、この大浦天主堂は、ドーンと目立つ高台に堂々と建っていた。

「教会の成り立ちも違うからね。」

リンくんが知ったような口を効く。

「え?そうなの。」

「うん。この大浦天主堂は、明治政府がキリスト教を解禁する前にできたものなんだよ(禁教令の正式な廃止は1873年)。」

「え?!へぇ!どういうこと?」

リンくんの説明だと長くなりそうだから、おれができるだけカンタンに話すな。

明治のはじめのこと。江戸幕府の倒幕と日本の開国によって、長崎のこの南山手という場所に外国人居留地が作られた。その居留地に再来した外国人宣教師フューレ神父が、長崎に住む外国人のために建てたのがこの大浦天主堂なんだって。

建設のタイミングでは明治政府がキリスト教を解禁していたわけではないから、当然、まだ日本人のキリシタンたちは「潜伏」せざるを得ない、つまり表立って洗礼を受けたりお祈りをしたりすることはできなかったはずのだが・・・。

「事件が起こるんだね?」

そう、事件が起こった。

大浦天主堂ができて間もない1865年のこと。
潜伏キリシタンの人々から、大浦天主堂は「フランス寺」と呼ばれ噂が立ち、見物人も押しかけていたそうだ。そんななかで、勇気を持って神父に自身の信仰を告白した日本人が出たのだ。当時、長崎・浦上地区の信徒であった女性だった。

その出来事をキリシタン史では「信徒発見」と呼ぶ。日本では江戸初期からキリスト教信仰が禁止されていたにもかかわらず、250年以上もの間、密かに世代をつなぎながら信仰を守り続けていた日本人たちがいるということが世に知らされることになった。

(この「信徒発見」の出来事のあとも、実のところ、明治政府は8年間にもわたってキリシタン弾圧を継続する。そのことは【キリシタン博物館】の章でお伝えします。)

“「信徒発見」のレリーフ。信者発見から100年の1965年に建立されたもの”
“「信徒発見」記念碑”

記念碑文

紀元一八六五年(慶応元年)二月十九日、仏人宣教師プチジャン神父(後の初代長崎司教)により大浦天主堂が建立されたが、同年三月十七日天主堂参観の浦上の住民等数十名が同神父に近づき「私達もあなた様と同じ心の者でございます。サンタ・マリヤの御像はどこ」
と云った彼等は三百年に亘る厳しい迫害を耐え忍び、ひそかに守り伝えたカトリックの信仰を表明した。
日本キリスト信者のこの信仰宣言は史上に例のない事実として全世界を驚歎させた。その感動的な場面をこの碑に再現し、信者発見百周年記念としてこれを建立するものである。

一九六五年三月一七日
信者発見百周年行事委員会

“信徒発見の際に信仰の告白を受けたプティジャン神父の像”
“神父さまとおれ”

「信徒発見」のきっかけとなったこの大浦天主堂は、その後も長きに渡って長崎のキリスト教信者に大切にされてきた祈りの場だ。禁教令の札が撤廃されたその後に、かつての潜伏キリシタンたちは宣教師の手によってキリスト教に復教し、その祖孫たちが現在でもカトリック教徒として長崎の地で教えを守り続けているんだって。

現在では土産物やおしゃれなカフェ、レストランなどが軒を連ねる観光スポットの様相だけれども、ココはキリスト教にとって世界的にも重要な場所だと言える。

「うわ!ローマ教皇もおでまし?!」

「そうそう。ローマ教皇であるヨハネ・パウロ2世もこの大浦天主堂にお出ましになり、祈りを捧げたらしいよ。」

それってすごいこと!

「うわぁ・・・!長崎にいらっしゃったのかぁ・・・!フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来から現在に至るまで、いかに日本における布教が紆余曲折あって類まれなる歴史が積み重なっているかっていうことの価値だね。」

“ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の銅像。1981年に来日した”

ローマ教皇の来日はそれ以降、2019年にフランシスコ教皇がお出ましになったそうだ。その際には長崎県営野球場に約3万人が集まりミサが執り行われたんだそうだ。

「すげー規模!音楽フェスみたいじゃん!」

“イエス・キリスト像。椿の花が五島を思い出させる”

さぁて、前置きが長くなったけれど、いよいよ堂内へ入ってみよう。(ココも当然ながら堂内は撮影禁止。)

創建当時からの重厚な板の大扉に迎え入れられて入堂してみると、そこにはずらりと並ぶ長椅子の数々。これだけ席数が必要なほど、信徒が集まってくるということなのだろう。比べるなら…大学の大講義室、みたいな感じ?奈留島の江上天主堂が小学校のひとクラスくらいのイメージだったから、その何倍もの規模感だ。

さすが世界遺産であり、国宝。長崎を代表する観光スポットでもあることから、堂内にはかなりの人数の観光客がいた。椅子に座ってぼーっと眺めることもできるし、壁伝いに聖画や像を鑑賞しつつ、祭壇の手前まで行くこともできる。

(写真が撮れないので)ぜひ公式サイトなどでもひと目見てほしいのが正面のステンドグラス。キリストが十字架にかかげられている姿をモチーフとしていて、窓自体の作りも大きい。まるで海外の教会にいるかのような錯覚に陥るほど豪華なものだと思う。
また、「信徒発見」でも求められた「サンタ・マリヤの御像」は祭壇の右手に今でも微笑みをたたえているし、左手にはヨセフ像、手前にはザビエル像、最後の晩餐のレリーフなど、ひとつひとつに見応えがある。

ただ、これまで訪れてきた教会とはまったく違う様子もあった。それは、大浦天主堂の歴史を説明する音声ガイダンスが大音量でかかっているということ。
教会の堂内は静粛にしなくちゃいけない、と思っていたから、その点だけは少し拍子抜けしてしまった。手元には入館時にいただいた立派なパンフレットもあるしね。確かに歴史やその価値を理解するためにはあの音声ガイダンスも悪くはないのだけれど、堂内の空気や厳かな雰囲気を感じたい人にはちょっと邪魔かもしれない。聴きたい人が各個人でイヤホンで聴けるスタイルにしてもらったらもっと良かったなぁ。

まぁその点を差し引いても、見どころ十分な教会堂。日本のキリスト教の歴史を象徴するような立派な教会堂。やっぱり長崎に来たら、ココは必ず訪れてみて欲しいな!

“大浦天主堂、カッコいいなぁ・・・!”
“日本に現存する最古の教会、大浦天主堂は美しい”
“立派なパンフレットをいただける。拝観料は一般大人1,000円(写真は障害者割引券で300円)”

おまけ。おれら、実は南山手エリアの大浦天主堂の近くのホテルに宿泊していたのね。

夜8時頃。晩ごはんを外のレストランで食べて帰ってきたその帰り道、思いもよらず大浦天主堂のライトアップを見ることができた。

昼間は多くの観光客でにぎわっていた参道にもだぁれも人がおらず、当然だけれど、天主堂の入口門も閉まっている。

夜の静けさのなかで、ハッと息を呑むようなその神々しい姿を見ることができて、なぜかココに導かれたような、そんな気持ちになったんだ。
「天主堂」の文字の下、お堂正面のマリア像(「日本之聖母像」と呼ばれている)からは強烈なオーラを感じるし、ステンドグラスの色が楽しめたことに驚いた。

リンくん、上手に写真に収めるのにかなり苦労してたけどね、とっても素晴らしい景色を見させてもらったよ。

“夜の大浦天主堂。ステンドグラスの色が白い壁に映える”
“写真撮るの難しい!でもなんとか成功”
“「日本之聖母像」を中心に強烈なオーラを放っていた”
“入口にある「国宝 大浦天主堂」の碑。昼間は気が付かなかった”

ちなみに、大浦天主堂、実は正式名称を「日本二十六聖殉教者聖堂」というそうだ。
二十六聖人というのは、1587年に豊臣秀吉によって出された伴天連追放令ののち、1597年に長崎で処刑された宣教師ら26人のことを指している。

時代が下ること1862年、26人は聖人として列せられることになった。大浦天主堂は、この日本二十六聖人に捧げられるべく、彼らの処刑地であった西坂の地(大浦天主堂から北へ約2.5km)の方角に向かって建てられたという。

「ホントは、日本二十六聖人殉教記念碑のある西坂公園も行ってみたかったけど、全然時間が足りなかった・・・!また長崎へ来ることができたら、次回は必ず行くよ!」

国宝 大浦天主堂 公式サイト
https://oura-church.jp/

大浦天主堂 長崎市公式観光サイト travel nagasaki
https://www.at-nagasaki.jp/spot/102

日本二十六聖人殉教地(西坂公園)長崎市公式観光サイト travel nagasaki
https://www.at-nagasaki.jp/spot/113

日本二十六聖人記念館 長崎市公式観光サイト travel nagasaki
https://www.at-nagasaki.jp/spot/60788

【キリシタン博物館】
(長崎県長崎市)

大浦天主堂の真横に建つ「大浦天主堂キリシタン博物館」。ふたつの建物で構成されていて、ひとつは旧神学校(旧羅典神学校)、もうひとつは旧長崎大司教館だったそうだ。

「こっれがねぇ・・・思っていた以上に展示のボリュームがすっごくて、面白かったし勉強になった!」
とはリンくん曰く。駆け足でまわっても1時間半くらいかかってしまってねぇ、アタマもいっぱいいっぱいになっちゃって、その日予定していたあとの観光プランはキャンセルしたくらいだ。

リンくん、旅行前にキリシタン史(日本におけるキリスト教の歴史)をざっとアタマに入れてから行ったわけなんだけれども、改めてザビエルによるキリスト教伝来から現在に至るまでの主要な動向をまとめて見ることができたのは良かったんだってさ。

「このキリシタン博物館で一番理解が深まったのは、”崩れ”のことかな。」

「くずれ?」

「そう。”信徒発見”のあと8年間続いた、明治政府によるサイッテーな弾圧政策のこと。」

ちょっとココで解説。

1873年、キリスト教の禁教令が正式に廃止となった。それは実に259年ぶりのことだった。

外国人居留者のために建てられた大浦天主堂で、日本人の信徒が神父に信仰告白をしたという「信徒発見」は、先に紹介した通り1865年のことだったよね。
1873年に禁教令が廃止されるまで、その間8年。明治政府によって厳しいキリシタン弾圧は続けられていて、その期間の取り締まりをキリシタン史の用語で「崩れ」と呼ぶんだって。

信徒発見の後、県内の潜伏キリシタンは続々と宣教師の指導下に入り、禁じられていた信仰を表明する地域も現れた。五島では「五島崩れ」と呼ばれる迫害が起き、明治新政府は浦上村の信徒約3400人を流罪にするなど厳しく弾圧した。
これを受け、米、英、フランスなど諸外国は「信仰の自由を認めよ」と厳重に抗議した。政府は1873年2月、ついにキリシタン禁制の高札を撤去した。江戸初期から259年間に及んだ禁教期は終わりを告げた。

p.101、松尾潤『祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界』、批評社、2018年

この8年間にわたっての各地における弾圧の記録が、このキリシタン博物館では展示されている。

「信徒発見」で信仰告白をした浦上の女性信徒は、信仰を表明した後、長崎県外へと流罪に処され、拷問にもあったという。
また、五島各地でも「崩れ」は起きた。特に酷かったと言われているのが、1868年に起きた現在の五島市に位置する久賀島(ひさかじま)の「牢屋の窄」(ろうやのさこ)だ。たった12畳の牢に約200人の信徒が約8ヶ月もの間幽閉されたという。うち42人が亡くなったという悲劇が起きたそうだ。キリシタン博物館の「崩れ」の展示コーナーでは、牢屋の床面積がいかに狭く悪列な環境であったかという説明がされていた。

牢屋の窄殉教記念聖堂 五島の島たび 五島市観光サイト
https://goto.nagasaki-tabinet.com/junrei/1089

ありがたいことに、いまおれが生きている令和現在の日本では、信教の自由は日本国憲法で守られている。そこに至るまで、いかに先人たちがしかも一般の庶民たちが、苦しみを受け、苦難を乗り越えてきたかという史実を、目の前に突きつけられた思いだった。

キリシタン史への興味から始まった、おれらの教会巡りの旅。
まだまだ消化不良ではあるけれどね。
歴史を知ることで現代の社会をとらえなおすことができる、誰かが言ってた、そのことをしかと理解できたような気がした。

“旧羅典神学校の赤レンガ壁”

大浦天主堂 キリシタン博物館 公式サイト
https://occ-museum.jp
※館内撮影禁止

【浦上天主堂】うらかみてんしゅどう
(長崎県長崎市)

「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」の締めくくり、最後に訪れる教会は、浦上天主堂だ。

「浦上ってさぁ、あの、”信徒発見”のときに信仰告白した日本人女性の出身地の浦上?」

そう、その浦上だ。大浦天主堂からは約5kmほど北にある高台に、鐘楼をふたつ持つレンガ作りの教会堂が立っている。

この地は「浦上崩れ」としてキリスト教禁教期末期に酷い弾圧があったことで知られるとともに、第二次世界大戦時に甚大な原爆被害を受けたことでも知られている。苦難の地といっても過言ではないと思う。

おれらが訪れた日は2月のわりには強い日差しが射していて、青空に赤レンガが映えて立派な美しいお堂だなぁという印象だった。

“平和公園のほうからのんびりと歩いていくと、高台に2つの鐘楼を持つ教会堂が見える”

道路を渡って、門をくぐると、急坂がお目見えする。5泊6日の旅路ももう最終盤。リンママちゃん(リンくんの母)の足腰にはかなり疲れが出てきてはいたけれど、なんとか一緒に坂を上りきって聖堂の前までたどり着いた。

「せっかくここまで来たんだから。」とはリンママちゃん。この旅の間、自分を奮い立たせるべく、まるで口ぐせのように何度もそう言っていた。

“カトリック浦上教会”

“急坂を上りきって改めて見上げると、聖堂の大きさに驚かされる”
“浦上天主堂の歴史と由来”

浦上天主堂の創建は1880年。浦上は戦国時代末期から熱心なキリシタンの集落だったという。
現存の聖堂は、戦後1959年に建てられたもの。1980年にはヨハネ・パウロ2世の来日が決まったことをきっかけに外装や内装を整備して、今の姿になったそうだ。

“浦上天主堂にもヨハネ・パウロ2世の像”

1867年の「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧で被害を受けたのがこの浦上の地に住むキリシタンたちだった。身体的精神的拷問によって改宗を迫られ、結果命を落とした者もいたという。
この2年前、大浦天主堂で信仰告白をした女性が浦上の信徒だったということも関係しているのかもしれない。熱心な信徒が多い集落だったからこそ、見せしめのように弾圧の対象に狙われ、浦上は悲しい歴史を刻むこととなってしまったのだろうと思う。

“拷問石”
“拷問石の案内板”
“日本の信徒発見150周年記念レリーフ”
“浦上天主堂と原爆の案内板”

厳しいキリシタン弾圧を経て、心境の自由を手に入れた信徒が浦上の地に大切に作り上げ守り続けてきた教会堂は、1945年8月9日の原爆投下で倒壊焼失してしまった。浦上は爆心地から500mという距離で、甚大な被害を受けたそうだ。
(原爆資料館に、当時の被害規模の説明や実際の遺品などが展示されている。)

昭和20年(1945)原爆により倒壊し、主任司祭の西田三郎神父らと信徒20数人が犠牲となったほか、当時の浦上カトリック信徒約12,000人のうち約8,500人もの尊い命が奪われました。

案内板の説明より引用
“「浦上天主堂の惨状」(原爆資料館 展示)”

16世紀後半より、キリシタン布教の地として歴史を持つ浦上地区。
1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴史に耐え、1873年(明治6年)、禁制の解かれる日を迎える。信仰の灯を守りとおした人々は、レンガを一枚一枚積み上げ、20年の歳月をかけ、浦上天主堂を1914年(大正3年)に、その後双塔を1925年(大正14年)に完成させた。双塔の高さは26メートル、東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、原子爆弾により、鐘楼ドームは吹き飛ばされ、わずかな堂壁を残しただけで、無惨に崩れ落ちた。

原爆資料館 展示より引用
“「ステンドグラスの破片」(原爆資料館 展示)”
“「溶けたロザリオ」(原爆資料館 展示)”

聖堂に入ろうと入口に近づくと、とたんにゴーンゴーンゴーン!!!と耳をつんざくような大きな鐘の音が鳴った。おそらく昼12時の時報だと思う。(けれど、実際には30秒ほど早かった。)
今回教会巡りをしていて、実際に鐘の音を聴いたのははじめてだったんだ。

弾圧、被爆・・・。悲惨な歴史の詰まった浦上の高台の双塔から、長崎の市街へと鳴り下ろす鐘の音を聴いていたら、「平和な世の中を忘れちゃいかんよ!」と諭されているように思えてならなかった。

“ゴーンゴーンゴーン!!!大きな音で鐘が鳴って驚いた”

浦上天主堂も中を見学することができるのだが、いちばんの見どころは、「被爆マリア」と呼ばれるマリア像だ。戦前にあった堂内に大切に祀られていた木製の像なのだけれど、1945年8月9日の被爆により、聖堂もろとも吹っ飛んでしまった。

しかし、戦後になって、奇跡的に焼け跡から頭部だけが発見されたのだそうだ。現在では、平和の象徴として浦上天主堂内に安置されている。
(当然堂内は写真撮影NGなので、下記リンクで見てね)

「マリア像の数奇な運命」おらしょこころ旅
https://oratio.jp/p_column/mariazo-sukinaunmei

「マリアさまはこんな無惨な姿になってまで、浦上の人々、長崎の人々に希望を与えようとしてくれているのかもしれないね。」

「戦後」という言葉がいつまでも使い続けられるように。決して死語とならないように。

自分の信念・信条・信教が、誰かの信念・信条・信教によって奪われないように。
自分の信念・信条・信教が、誰かの信念・信条・信教を奪わないように。
暴力や武力によって、奪い合うことがないように。

そのために、コトバがあるのだから。

「平和な世の中をニンゲンたちが保ち続けられるように、どうかお見守りください。」

おれらが始めた五島&長崎の教会巡りの旅は、浦上天主堂の被爆マリアさまの前で、世界の平和を願って閉幕となったのだった。

“坂の途中に被爆遺構の天使の頭部が残されている”
“被爆遺構のレンガと像、それから狛犬?”

“入口から聖堂に向かってマリア様が静かに祈りを捧げている”

浦上教会(浦上天主堂) 長崎市公式観光サイト travel nagasaki
https://www.at-nagasaki.jp/spot/122

「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」は”一旦”完結

さぁ、3回にわけてお送りしてきた「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」。いかがでしたか?

説明が多いとか、おれ(ころすけ)の写真が少ないじゃん、ぬい撮りじゃないじゃん、とかのお叱りは重々受け止めさせていただくとして・・・。

おれにとって(リンくんにとっても)、とても印象に残る旅だったんだよな。
旅に出る前にこんなに歴史のこと勉強してから行ったこともなかったし、その土地の文化や人柄のことを知りたいと強く願ったこともなかった。ただ有名な観光スポットだとか重要文化財だからとかではなく、一歩一歩踏みしめる場所が、ある意味ニンゲンくさくて、代々のその命の積み重ねの重みのある場所だと感じたんだ。

もっともっと長崎のこと知りたいし、全然行きたいところが回りきれてない!

ってことで・・・、この「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅」は、これからも続けていきたいと思う。

今回の旅程では”一旦”完結!だけど、続編を乞うご期待くださいね。

「なぁなぁ、リンくん、次はドコ行きたいの?」

「えー?五島だったらまずは頭ヶ島天主堂、それから黒島天主堂でしょ。あと長崎市内なら日本二十六聖人記念館(西坂公園)・・・。」

「おー!いっぱいあんな!」

「そうだよぉ。また長崎、行こうね。」

教会巡りのお話はこれで終わるけれど、他にもたくさん観光して思い出がいっぱいあるんだ。というわけで、ころすけの旅日記(五島&長崎編)はまだ続きますよーっと。
ぜひお付き合いくださいな。

(その6に続く)

ころすけ

ころすけの旅日記(五島&長崎編)その1 から読む▼

▼過去のころすけの旅日記はコチラ▼

「ころすけの旅日記(山陰&山陽編)まとめ」
https://bobingreen.com/2024/05/23/9304/

「ニチヨービの東京駅の洗礼 — ころすけの旅日記(名古屋&伊勢編)その1」
https://bobingreen.com/2024/05/23/9254/

「ころすけとラアコの温泉デート — ころすけの旅日記(箱根編)その1」
https://bobingreen.com/2025/04/04/13156/

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Rin(リン)

ぬいぐるみブロガー、Rin(リン)です。 ライオンのボブ家と愉快な仲間たち、そしてニンゲンのケンイツ園長と一緒に、みどりキャンプ場で暮らしています。 ボブ家の日常を、彼らの視点でつづっていきます。

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