とある享保の猫
「ニャァ」
わたしがひとつ鳴くと、家の中をスゥと心持ちの良い風が通り抜け、チョイとひげをかすめて去っていった。
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猫のシジマルです。
いまわたしが訪れているこの建物は、江戸は享保の時代に建てられたという茅葺の民家だという。30年ほど前まで実際に人が暮らしていたらしいが、今は文化財として指定され、公園の中に移築されて、ふらりと訪れる人々にその門戸を開いている。かつてのこの家の主は、鴇田(ときた)氏というらしい。
「曲屋(まがりや)」という建築様式で、L字型に形作られた建物の中に、いくつかの間が仕切られている。この様式は本来東北地方で多く作られたものらしいが、千葉では珍しいものだそうだ。
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「享保って、吉宗の頃でしょ。享保の改革。」
リンくんが土間の入り口にある説明書きを読みながら、声を上げた。
「大奥」にハマっているリンくんだから、享保→徳川吉宗→冨永愛、と脳内変換して、それ以上でもそれ以下でもない、のっぺりとした感想を述べているだけだ。きっとあの真っ黒い着物を妄想してしゃべっているに違いない。
「えぇぇと、300年前!そうか、それってすごいねぇ。」
リンくんはホコリまみれのニューバランスのスニーカーを脱ぎながら、板の間へと上がる。
わたしも前足と後ろ足に汚れがないかちらりと確認する素振りをして、上がった。ずっとリンくんのリュックに入っていたのだから、汚れるすきなどないのだけれどもね。
「リンくん、ここには冨永愛、いないからね?」
「ひとことも言ってないじゃん、シジマル、なんでわかったの?」
「リンくんの考えてることくらい、お見通しだよ。」
我々のくだらない、令和のやり取りはさておき。
なるほど、300年もの年月を経て建物が残っていて、いま、わたしはその板の間に脚を踏み入れた、そういうことになる。
広間を抜けると底には畳敷きの部屋が続く。全ての襖は開け放たれているので、とても広く見える。物事をはっきりさせるのを好まぬように仕切りが曖昧なところがわたしは心地よい。
ぐるりと見た限りでは先客もおらず、物静かな初老の管理人以外には、完全にわたしたちだけの空間となった。
その古くも美しく整えられた縁側から見える庭は、決して華美ではない。素朴な草木が自然のままに芽を息吹き、春を喜んでいるように見える。
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それから趣深いのは水琴窟だ。すいきんくつ、と呼ぶそうだが、これは庭の風情をグッと良きものにしてくれる魔法の道具だ。トロリと細く流れ落ちる水の音は美しいもので、来訪者たち(わたしは来訪猫ということになるが)は、すっかりお喋りをやめてその音色に耳を澄ますことになる。この邸宅の空間に、ほんの少しの緊張感とそれから緩やかな旋律を与えてくれる仕掛けになっているのだと思う。
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贅沢にも、しばらく心静かにぼんやりと、ただ、ぼんやりと時間を過ごした。
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門外に出ると、そこはもう現代の公園の景色だった。
池があり、水鳥がいて、遊具があり、レジャーシートをひいてピクニックをするちびっこ連れの家族がいる。
ただひとつ、少しだけ異質なものを感じた。
この邸宅の門の斜向かいに、立派な枝垂れ柳がそびえ立っているのだ。
樹齢がどれくらいだかは知らない。この邸宅だって、移設されたものだというから、いつからこの木と年月を共にしているのかも知らない。
けれども、その足元にグッと踏み入ると、何か不穏なものに覆い被さられたような若干の不安と、何かの力で護られているかのような奇妙な安堵とに包まれた。
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「枝垂れ柳だ。ヒュードロドロドロドロ・・・」
リンくんにそう言われて、妙に納得し、柳の実の傘の下からそそくさと退散した。
フゥ・・・。現代に戻ってきた。
江戸、明治、大正、昭和、それから平成、令和。
歴史のある古いものとは、空間を共にして音や匂いや光や、全身で感じるとることが素晴らしく、そうすることによって、少しだけ身近に、そして自分自身との繋がりを持つことができるんだなぁと、思った猫であることよ。
「ニャァ」
そう、わたしは今を生きている。
シジマル
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※参考リンク↓↓↓
旧鴇田家住宅(千葉県習志野市) / 習志野市ホームページ内
https://www.city.narashino.lg.jp/soshiki/shakaikyoiku/gyomu/shisetu/koenshiseki/kyutokitake.html
※シジマルのおさんぽのお話はコチラもどうぞ
「シジマルの秋さんぽ」
https://bobingreen.com/2022/10/17/2810/