夜が始まる瞬間
ヒンヤリとした空気がおれの鼻先をかすめていく。
もうTシャツ1枚じゃ、朝晩は肌寒くて指先が冷えるし、少し心もとない。
みどりテラスの向かいの林の中からは、虫の鳴く声と、それに混じって鳥がさえずる声がする。
ルルルルルリリリリリ
ルルルルルリリリリリ
ピーゥピゥジゥゥジゥゥ
ピーゥピゥジゥゥジゥゥ
今日は、朝からなんだか落ち着かなかった。
何をしても、ラジオを聴いても、ソファでオハナ(家族)たちと過ごしても、どうにもおれは心からリラックスできていなかったように思う。
こうやって今、リンくんとふたりでみどりテラスにいるってことは、リンくんも同じ気持ちだったんだろう。
心がざわざわするライオンと、心がもやもやするニンゲンが、ふたりで空を眺めるのだ。
ざわざわ、ざわざわ
もやもや、もやもや
口に出して言ってみようか。
ざわざわ、ざわざわ
もやもや、もやもや
不思議なことに、わざと口に出して言ってみると、なんと平坦な音しか生まれないのだろうか。
ざわざわ、ざわざわ
もやもや、もやもや
抑揚も感情もあったものじゃない。くだらなくつまらないものだと思えるまで、その単調な音を発してみる。
ざわざわ、ざわざわ
もやもや、もやもや
おれとリンくんが、そうやって謎の音をつぶやいている間にも、周りにはたくさんの不規則で生きている音がする。
自転車のチェーンの油が足りなくてきしむ音。
子供のお迎えから戻ってきた旧型マーチのドアの音。
赤茶色い中型犬を連れて夕方の散歩にでかける兄さんの足音。
あぁ。例の放送が始まった。
夕方5時のチャイムだ。
くぉどぉむぉたぁちぃは・・・・かえり・・・ましょぉ(ましょぉ・・・)
今日はいつになく音が反響して曖昧に聞こえる気がした。
チャイムの余韻が消えると、町は本格的に夜を迎える気がする。自治体のチャイム一つでそうやって思い込ませられているなんて、おれはどうぶつとして、ヒャクジューのオーのライオンとして、なんだかひ弱なんじゃないかと思ってしまうけれども、仕方ない、ニンゲン社会でニンゲンと共に暮らしているのだから、そうやって適応していってしまうものだろう。
今日はリンくん、おれを隣に座らせても、何ひとつ、しゃべらない。言葉を忘れたのか?ついにリンくんもどうぶつになったのか?むしろおれのほうが饒舌だ。
なぁ、リンくん、冷えてきたね。寒くないの?
・・・(コクン)。
寒くないんだ?
・・・(コクン)。
そ、なら、いいけど。
その手には、マグカップがあった。さっきまで飲んでいたインスタントコーヒーの残りかと思ったら、全然違う香りがした。
リンくん、それ、赤ワインじゃね?
・・・(コクン)。はい、ボブおにもあげる。
ん、アリガト。
ひとくち舐めると、渋みとアルコールが調和しきれないちょっととがった酸味があって、それがおれの空きっ腹にぐっとしみわたってきた。
普段晩メシを食べながら飲むそれとは、違って感じるものだ。
リンくん、どした?
・・・初心に帰ろうと思ってね。
は?
夕方、こうやってみどりテラスに出てさ、物思いにふけつつ、いろんな感情を整理する。私にとって、大切な時間なわけですよ。
うん。
ボブお。いつもそばにいてくれて、ありがとう。
ん、どういたしまして。
おれはさぁ、ニンゲンと暮らしててさ、こうやって言葉を覚えてさ、あ、ついでにおいしいものもいっぱい知ってさ。それがおれの役目なわけ。リンくんがどんなにこうやってざわざわもやもやしててもさ、おれは寄り添うことが仕事なのよ。知ってるくせに。
うん。ありがとうね。
夜が始まると、目の前の林には、闇が訪れる。おれはこのみどりテラスから、空を見上げ、町を見下ろす。あいにくの曇り空、星が見える気配はない。帰路を急ぐクルマのヘッドライトが視界の端の方を通り過ぎていく。
遠くで、救急車のサイレンが聞こえる。
ピィポォピィポォピィポォピィポォ
その甲高い音は、次第に虫の声にかき消された。
リリリリリルルルルル
リリリリリルルルルル
気がつけば、おれらの周りにも夜がやってきた。
なぁ。夜だよ。
うん。
まだ、しゃべれないの?
うん。
しょーがねぇな。ほら。
おれは両手を突き出して、リンくんのほうを向いた。
抱っこ、だろ?
うん。ボブお。抱っこ。ハッグ。
いつまでもおれはリンくんを甘やかし続けている。だって、リンくんから言葉が無くなったら、おれも言葉を失ってしまうから。
だから、おれは、語り続けるのだ。
夜が、始まるよ。
リンくんの腕の中で、おれはひとりつぶやいた。
ボブお