追悼 美輪明宏さん そして 大切な愛のコトバ — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その6

2026年、イチネンの前半が終わろうというと6月下旬のある日。

とあるニュースが飛び込んできた。

美輪明宏さんがお亡くなりになった。
享年91歳、老衰との報道だった。

その数日前にも著名人の訃報が報じられていたし、なんだか立て続けに寂しい話が聞こえてくる。

時を同じくして、サッカーFIFAワールドカップ2026 北中米大会で、日本は今回もトーナメント初戦を勝つことができなかった。ベスト32。

「最高の景色を」。
「ニッポンのために」。

こんなコトバたちに、正直、おれは食傷気味だ。

一応説明しておくが、サッカーが嫌いなわけではない。
ワールドカップだって多少は観てるし、日本が勝つのはうれしい、日本の選手が頑張って世界で戦えるレベルに上がっているのも理解するけれど・・・。
日本というチームが世界にサッカーで負けてもさほどは悔しくはない、というのがおれのスタンスだ。
だって、この世の中にはもっともっと強く、美しいサッカーをするチームや国があるのだからね。その試合を純粋に観られるほうが楽しいと思っているし、そういったチームやプレイヤーにこそ、最大の敬意を払うべきだと思っている。

ワールドカップの報道の裏(違う、本来は表なのだが)では、現在の日本の国会運営、そして政権の横暴っぷりは酷い有様だ。なぜか、なぜか・・・おれが望んでいる方向とは、正反対に突き進んでいる。

殺人事件や凶悪犯罪の報道も耐えないし、地震、台風、害獣・・・、ニンゲンの「普通の」生活を脅かすさまざまな災害も起きている。

そりゃぁ、トラだってガルガル吠えるよ。

「お前らニンゲン、どーかしてるぜ」ってな。

“ガルガル!「お前らニンゲン、どーかしてるぜ」(先日、神奈川芸術劇場KAATにて)”

言いたいことはたぁくさんあるのだけれど・・・。

一旦、おれは口をつぐむことにする。話が進まないからな。

そう。
美輪明宏さんがお亡くなりになった。

生前に残されたという直筆メッセージのコトバが凄まじかった。(直筆の画像は公式サイトで見てほしい)

曰く、

こんな世の中を
生き抜く武器は
愛の言葉しかありません
この世のすべての問題を
解く鍵は愛です
愛があれば
戦争なんか起こりません

美輪明宏

美輪明宏さん生前のメッセージ(株式会社オフィスミワ 公式サイトより引用)

おれが伝えたいのは、いたくこのコトバに救われたということ。
首がもげるほど、ウンウン、ウンウンと頷いてしまったということ。

美輪さんは、長崎のご出身だった。
10才のときに爆心地から約3.9kmの自宅で被爆されたそうだ。
ご本人は助かったが、爆心地近くに住んでいたお祖母さまを亡くされたほか、壮絶な戦中戦後の体験をされたという。

美輪さんが、戦争について、被爆体験について、語っておられたということは知っていたものの、どちらかといえば、リアルタイムでは、奇抜なファッションに身を包みつつ、バラエティ番組を含めたタレント活動をされている姿のほうが目にする機会が多かった。
もちろん歌手であり名俳優であったことも存じ上げてはいる。(「ヨイトマケの唄」は桑田佳祐のカバーで、最近でもクルマでよく聴いている。)

美輪さん・・・、コトバを選ばずに言わせてもらえれば、ファッションは奇抜で派手だけれど、ニンゲンのココロの内面の美を追い求めていて、浮世離れしているように見えて実のところは人から慕われる芸術家、みたいな印象かな。
あとは、『もののけ姫』のモロや『ハウルの動く城』の荒地の魔女などジブリ作品の声優としてご活躍されたあの唯一無二のお声は忘れられない。

お亡くなりになったと知り、俄然、その人となりを知りたくなった。

「そうだ。そういえば、おれ、今年の2月に長崎へ行って、原爆資料館や平和公園を訪れたじゃないか。」

旅から日常に戻り日々を送る中で薄れていきつつあった、被爆地長崎への旅の記憶を、もう一度取り戻してみたいと思う。

美輪明宏さんが遺してくださった愛のコトバを胸に。

山手から北上して原爆資料館へ

5泊6日の旅程で計画していた五島・長崎旅。
5日目の朝を、長崎市内の山手エリアにあるホテルの部屋で迎えた。

2月の長崎の夜明けはまだまだ遅い。7時少し前でもまだほんのりと夜の匂いが残っている。

「長崎の夜明けぜよ」、とついつい言いたくなったけれど、自分でおかしくなってついプッと吹き出してしまって、それでおしまいにした。
今回、長崎市内は2泊のみなので、坂本龍馬関連の史跡(亀山社中など)へは訪問することは叶わなそうだ。次回に取っておこうと思う。

「ころちゃん、おはよぉ。」

おれが出窓で外の様子を伺っていると、ラアコが眠たそうに目をこすりながら声をかけてきた。

「ラアコ、起きた?おはーに。」

ラアコというのはおれの旅のパートナー。リンママちゃん(リンくんの母)のオハナ(ぬいぐるみ家族)だ。一昨年の5月に名古屋の東山動物園でおれが見初めて、それから共に旅するごとに仲を深めている同志だ。

「ラアコ、今日はね、原爆関連の施設をまわるよ。だからね、静かにするんだよ。はしゃぐところじゃないからね。」

「げんばく?うん?わかった。ウンウン。」

おれはラアコのこういう素直でまっすぐなところが大好きだ。

“コアラのラアコ(左)とおれ、ツキノワグマのころすけ(右)。旅のパートナーだ”

朝食を済ませて身支度を整えると、おれたちはホテルを出てバスに乗り、原爆資料館を目指した。開館は朝9時。できるだけ空いていて観光バスツアー客が少ないであろう開館直後の時間に到着するように段取りをしてきたのだ。

ホテルのある山手エリア(グラバー園周辺)から原爆資料館へ向かうには意外にも直通のバスはなく、途中「中央橋」バス停で乗り換える。
(本当は路面電車にも乗ってみたかったのだけれど、朝の通勤時間帯で混んでいそうだったのもあって、機会を得ることができなかった。)

“長崎バス乗車!”
“ホテルは山手(グラバー園)近くなので、「中央橋」で乗り換えて北上する”
“「中央橋」バス停”

ホテルを出て約30分ほどで「原爆資料館」バス停で下車。そこからセントポール通りという緩い坂を登って原爆資料館を目指す。ちなみにセントポール通りというのはアメリカミネソタ州にあるセントポール市と長崎市とが姉妹都市であることから、1975年に名付けられたそうだ。
(※参考 長崎市公式サイトより → https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/2009.html

“バス停を降りると大きな看板が目に入った”
“セントポール通り”

坂を上りきったところに、懐かしい黄色と赤のコンビニ「ヤマザキYショップ」があってちょっとうれしくなった。
おれがまだ子どもの頃(リンくんも子どもの頃だ)、いちばん身近にあったコンビニがまさにヤマザキYショップだったからだ。後巻きの海苔が添付された三角形のパックおにぎりを初めて見たのは、多分あの店だったろうなぁ。随分前に閉店したけれど。

“原爆資料館最寄りのコンビニは「ヤマザキYショップ」”

長崎原爆資料館で共に戦争を反省し平和を祈る

「さぁ着いたよ。」

寒々しいねずみ色のコンクリートにはめ込まれた「長崎原爆資料館」の文字。色はなく、淡々としたフォントだ。
英語、中国語、韓国語でもそれぞれ書かれている。

そういえば、おれらの前には訪日外国人らしきグループの姿が。聞こえてくる話し声は、どうやら韓国語のようだ。

仮に彼らが韓国からの旅行客だとしてね。

日本へ遊びに来て、観光先に長崎という町を選び、そして原爆資料館を訪れてくれる。そんな姿を見て、おれだったら逆のことできるだろうか?とハテと考えてしまった。

おれが知る限り、80年前の当時の国同士の立場はひとことでは言い表せない難しいものだ。
2026年の時代に、日本の戦争の歴史について、韓国の方が長崎の被爆地を訪れ、こういった施設で理解を深めようとしてくれるということを、日本人(いや日本グマか)としてうれしく思った。

あの人たちもおれたちも、たまったま今日のこの朝9時過ぎに長崎原爆資料館にやってきた観光客同士。
たったそれだけのことだけれども、同じ空間で共に戦争を反省し平和を祈ることができるという、このことのすべてが、先人たちの歴史の積み重ねなんだ。

ありがとうございます。

ココロから感謝をしたいと思う。

“さぁ着いたよ”

この建物の無機質さの中に、人類が起こした阿呆な戦争の歴史が詰まっていて、その阿呆な戦争によって、被爆した長崎の街と文化そして長崎の人々についての記録・記憶が詰め込まれている。

おれは、いまから、この建物の中に入って、それを全身で受け止めるのだ。

ブルッ・・・

そう思ったら、身震いがした。

原爆のことを知りたい、歴史を学び、見たいと思って覚悟してこの場所へやって来たわけだけれども、意外と緊張している自分がいることに気が付かされた。

“原爆資料館入口。膨大な数の千羽鶴が目に入る”

エントランスを入ると、地下へと続く螺旋状のスロープがある。やはりコンクリート造りの冷たい印象の壁で、そこには5年刻みで西暦年が刻印されているのが目に入った。
なるほど、このスロープは、単なるユニバーサルデザインではない。一歩一歩下っていくにつれて、来場者自身の意識を、現代から徐々に原爆投下そして戦時へと遡らせていくといった演出のように思えた。

「わたしが生まれたのはこのあたり。」

「そうね、ママはこのあたりね。」

おれは90年代生まれ、リンくんは80年代生まれ、そしてリンママも戦後生まれ。
おれたちはそうやって静かに会話をしながら、自らの足でタイムスリップをし、戦時の記録の扉へと向かっていった。

“螺旋状のスロープを自らの足で下っていくことで、時代を遡っていく”

スロープを下りきり地下の展示室に足を踏み入れると冒頭に登場するのが、ひとつの壊れた柱時計だ。

“1945.8.9 11:02 am”

「1945.8.9 11:02 am」

その瞬間の日付と時刻。

80年以上前の1945年8月9日のこの時刻午前「11:02」で止まったまま。

“「11:02で止まったままの柱時計」”

柱時計

爆心地より約800mの坂本町山王神社近くの民家にあったもの。爆風で損傷し、時計の針は爆発の時刻11時2分を示している。(寄贈: 久保忠八)

原爆資料館 掲示より引用

説明によれば、柱時計は個人宅にあったもののようだ。
その家の人々は一体どんな被害を受けたのだろう。
80年後の2026年2月の今でも、原爆の投下されたその瞬間を遺す、象徴的な遺品だ。

長崎に原爆が落とされた経緯について、改めてきちんと理解をしておきたいと思う。
歴史研究においてはさまざまな議論があるから、おれの理解は一面的かもしれない。おれはいち市民クマであって専門家でも歴史家でもないのでその点はどうか了承してほしい。
なので、おれが長崎訪問前に読んだ本を参考にしてみたいと思う。

下妻みどり 著『すごい長崎 日本を創った「辺境」の秘密』(新潮社、2025年)から抜粋・要約させてもらうと・・・

1945年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下された。3日前の8月6日、広島がB29の原子爆弾の投下目標都市の第一として投下され、その後、米軍は「小倉、長崎と続」けて投下を試みていた。しかし当日小倉では「地表が見えずに三度失敗し、断念」し、「第二目標の長崎へ向か」い、「原爆投下の本来の照準点から3キロほど北に投下した。

「爆心地から浦上天主堂までは約500メートル」で、「1万2千人の信徒のうち、8千5百人ほどが亡くなった」。「当時の長崎市の人口とはおよそ24万人」で、「翌年の報告では、死者が7万4千人弱、負傷者が7万5千人弱とされる」。

下妻みどり『すごい長崎 日本を創った「辺境」の秘密』新潮社、2025年
p.153-156 より抜粋・要約

下妻みどり『すごい長崎 日本を創った「辺境」の秘密』新潮社、2025年
https://www.shinchosha.co.jp/book/356051

この理解をさらに具体的に説明してくれる掲示が原爆資料館にもあった。

“原爆資料館 掲示”

広島に原爆が落とされた3日後の1945年(昭和20年)8月9日、長崎に第2の原爆が落とされた。
原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられ、8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空隊司令部作戦命令17号において、小倉を第1目標、長崎を第2目標として翌9日に投下することが指令された。
この日、ソ連が日本に宣戦布告した。
9日、B29ボックス・カーは小倉上空に達したが焼夷弾による煙のため投下を断念、第2目標の長崎に向い、同日11時02分、原爆を投下した。

原爆資料館 掲示より引用

“原爆資料館 掲示”

8月9日

2:49 a.m.
●原爆搭載機ボックス・カーがテニアンを離陸(機長スウィーニー少佐、技術将校アシュワース中佐)。焼夷弾の煙のため小倉市市街地上空を3回旋回し、長崎に方向を変更

10:58 a.m.
●長崎上空も雲のため視界不良。燃料不足で期間を検討

11:02 a.m.
●一瞬の雲の切れ間に、原爆(プルトニウム原爆)を投下

原爆資料館 掲示より引用
“原爆資料館 掲示”

1945年(昭和20年)8月9日の長崎市
人口 約240,000人

原子爆弾による被害者数(1945年12月末までの推定)
死者 73,884人
負傷者 74,909人
(1950年/長崎市原爆資料保存委員会調査)

原爆資料館 掲示より引用
“本来の目標投下地点は実際の爆心地よりも南に3kmほどの眼鏡橋付近だった”

長崎の原爆の被害が大きかった地域のひとつが、浦上地区だ。

浦上地区には浦上教会というカトリック教会がある。
教会そのものの歴史や文化遺産としての価値については以前にお話したのでその回に譲ろうと思う。
(※コチラ→「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅【③長崎市】 — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その5」

当時の浦上教会の建物は原爆で一瞬にして崩壊してしまった。そして、当時の浦上カトリック信徒約12,000人のうち約8,500人がお亡くなりになったそうだ。
当時の被害の凄まじさについては写真および復元模型で原爆資料館でも確認することができる。
現在では建物の一部の柱が平和公園に遺されているほか、新しい教会堂の中には「被爆マリア」と呼ばれるマリアさまの像も安置されている。

浦上教会の当時のステンドグラスは原爆の爆風によって粉々に砕け散り、一部は灼熱によって溶け、丸いビーズ状になって発見されたというから凄まじい。

“「ステンドグラスの破片」(原爆資料館)”
“「ステンドグラスの破片」拡大鏡ごし、灼熱でビーズ状に丸くなっている(原爆資料館)”

朝9時過ぎに入館してから、2時間近くが経っていた。

原爆資料館の構成は大きく4つに分かれていて、

A. 1945年8月9日
B. 原爆による被害の実相
C. 核兵器のない世界を目指して
D. ビデオルーム他

となっていた。

おれらは、被爆遺品や被爆者の声などの展示を中心にゆっくりと見てまわったが、それでもまだまだ時間は足りないと思われるほどだ。
思っていた以上の展示ボリュームに圧倒されつつ、この資料館に詰め込まれた歴史認識と戦争への反省、そして核兵器に対する憎悪と根絶を目指す強い意志をしかと受け止めたつもりだ。

地下の展示室を出て自然光の入る1階エントランスに戻ると、現代に戻ってきたのだという安堵感を覚えた。
目の前にはそれはそれは色鮮やかな千羽鶴が美しいカーテンを織り成していた。

「もうせんそうがおきませんように」

誰かが書いた祈りのコトバは、おれのクマの小さな胸にも重く響く。

もう戦争が起きませんように。

もうニンゲンがこれ以上戦争を起こしませんように。

オトナにもなって、なんでそんな簡単なことができていないのだろうか。

おれは決して戦争を望まない。

おれの大切な人をおれは大切にするし、おれの大切にしている人が大切にしているものや人やことを大切にしたい。
その輪が広がっていけば、世の中は大切で溢れていくのだ。
大切じゃない人なんていないのだ。

それが尊重ってもんだし、人権(あ、おれはクマだからクマ権でもいいか?)ってもんだろう。

美輪明宏さんの遺したメッセージを忘れず、おれは声を上げ続けよう。

「愛の言葉」ならぬ、大切のコトバを。

“自然光の入るエントランスでは色鮮やかな千羽鶴が美しいカーテンを織り成していた”
“「もうせんそうがおきませんように」”

浦上天主堂のかつての姿

“「原爆殉難者名奉安」”

原爆資料館をあとにしたおれら一行は、平和公園へと向かった。

地上に出ると、2月の長崎の空は青く澄み渡り、穏やかな天候そのものだ。
薄手のダウンコートを羽織ったリンくんは、むしろちょっと暑そうにしている(もともと暑がりだから仕方ないけど)。

“原子爆弾落下中心地”
“原子爆弾落下中心地の碑文”

昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地の上空五〇〇メートルでさく裂し、一瞬、七三,八〇〇人の尊い生命を奪い、七六,七〇〇人の負傷者を出した。同時に、家屋の焼失一一,五〇〇戸、全壊又は大破したもの六,八〇〇戸、この地を中心として、二・五キロメートルに及ぶ地域が壊滅した。その惨状は筆舌に尽し難い。

ここに原子爆弾落下の中心地を示すためこの碑を建てる。

昭和三十一年三月
長崎市町 田川 務

原子爆弾落下中心地の碑文より引用

平和公園の手前にあるのが、爆心地公園だ。

御影石で作られた塔は爆心地の場所を示し、そのふもとには被爆者の名前が刻まれていた。

碑の前で手を合わせたのちに、右手側に目に入ったのは古めかしいレンガ造りの柱だ。

「コレが・・・!浦上天主堂の遺壁なんだね。」

先に紹介した通り、甚大な被爆被害を受けた浦上天主堂。その遺されたほんの一部の柱がこの広場に移設されたのだという。

手積みされたであろうレンガがかろうじて残っているものの、焼け焦げた石造りの天使の顔などが痛ましい。

でも、原爆投下から80年以上経って、こうしてまるで要石のように、いまだに長崎の街を見守ってくださっているのだと思えば、そのお顔の表情の見え方も変わってくるような気がする。
これまでも、これからも、この爆心地の真横で、被爆者たちのために祈りを捧げ、寄り添ってくださるのだろう。

“浦上天主堂の遺壁”
“浦上天主堂の遺壁 天使”
“浦上天主堂の遺壁 上部 黒くただれた像”

“ハトの憩いの場となっていた”

静かなる平和祈念像と飛び立つハト

のんびりと散歩をする人、ワンちゃん連れの人、それから写真を撮りまくる観光客。
何も知らなければ、美しく整えられた公園、街なかの癒しスポットだろうと思う。

しかし、ここは長崎の平和公園。広島の原爆ドームと同様、平和祈念式典などで何度も見たことのある場所だ。

水量豊富な噴水は「平和の泉」といい、被爆者が水を求めて苦しんだその苦悩を鎮魂するためのものと思われる。

・・・・・・・・・・
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶたの浮いたまま飲みました

—あの日のある少女の手記から

平和の泉の碑文より引用

そして、その「平和の泉」越しに臨むのが、かの有名な平和祈念像だ。
右手を天に向け、左手を水平に伸ばし、原爆の根絶と恒久平和を祈る象徴として知られている。

原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられました。

長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像。(高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 制作者:北村西望氏)

制作者は長崎出身の彫刻家で、この像は神の愛と仏の慈悲を象徴し、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めました。
毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。

「平和の泉」 (直径:18m)
原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて冥福を祈り、世界恒久平和と核兵器廃絶の願いが込めて浄財を募り建設された、円形の泉です。1969年(昭和44年)に完成し、平和公園の一角、平和祈念像の前方に位置しています。
被爆し水を求めてさまよった少女の手記を刻んだ石碑が正面に設置されており、当時の惨状を重々しく映し出しています。
平和の鳩と鶴の羽根をイメージした噴水が舞い、平和祈念式典の前夜には数多くのローソクが灯され、犠牲者を悼む催しも行われます。

ながさき旅ネット 「平和公園(平和祈念像・平和の泉)」より引用 https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/130

“平和公園”

この日の平和公園は人はまばらで、おれらと同様観光客が数グループ、まばらに写真を撮ったりしてのんびりと過ごしていた。

追悼式などが開かれるこの広場、実際に足を踏み入れてみると思っていた以上にスペースは広かった。
そのいちばん奥に鎮座する平和祈念像は力強い筋肉を有し、堂々たる姿で天を指差している。

足元には花が手向けられ、そして、ハトたちが平和祈念像の肩の上で休息をしていた。

“平和祈念像”
“平和祈念像の肩の上で休息するハトたち”

「おれも!平和祈る!!!」

おれはリンくんの腕から飛び出すと、平和祈念像と同じポーズを取ってみせた。

天に向けた右手は原爆の脅威を
水平に向けた左手は恒久平和を

ふざけてるつもりは毛頭ない。

でも、まぁこの場所に来たらやっぱりやりたくなるよなぁ・・・!

「うん、ころすけ、いい感じよ。」

「そうさ、おれは平和を祈るクマだからな。」

“平和祈念像ところすけ、同じポーズにて平和を祈る”

バサッ・・・!

そのとき、ハトが一羽、飛び立った。

「ハトにとってはココはただの休憩場所なんだろうねぇ。」

「止まりやすい場所だなぁくらいにしか思ってないだろうね。」

ハトは平和の象徴だとはよく言われるけれども、今日ほどそう思えたことはない。

筋骨隆々の平和祈念像とハト。

そこにいてくれるだけで、救われたキモチにになる。

そこにい続けてくだされば、彼らを目の当たりにすれば、おれみたいな観光客でさえ、感じるものがある。

長崎の人々が、長崎という街が、どれだけ原爆被害を悲しみ、戦争を憎しみ、平和を願っているかということを。

だから、長崎旅行から帰ってきた今、チーバの地から、長崎へ思いを馳せ、連帯させてもらおうと思う。

ここまで読んでくださったオトモダチ、読者のみなさん、もし賛同いただけるのであれば、最後までお付き合いをお願いします。

昨年2025年の戦後80年を祈念して出された長崎市長による「長崎平和宣言」を全文引用掲載させていただきます。

ぜひ、読んでください。

それが、今言える、おれが大切にしたい、長崎の街の、長崎の人々の「大切」にしている「宣言」という名のコトバだから。

「長崎平和宣言」全文引用

“原爆資料館 掲示 「長崎平和宣言」”

「令和7年 長崎平和宣言」長崎市公式サイト
https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/4920.html

「長崎平和宣言」

1945年8月9日、このまちに原子爆弾が投下されました。あの日から80年を迎える今、こんな世界になってしまうと、誰が想像したでしょうか。
「武力には武力を」の争いを今すぐやめてください。対立と分断の悪循環で、各地で紛争が激化しています。
このままでは、核戦争に突き進んでしまう—。そんな人類存亡の危機が、地球で暮らす私たち一人ひとりに、差し迫っているのです。

1982年、国連本部で被爆者として初めて演説した故・山口仙二さんは、当時の惨状をこう語っています。
「私の周りには目の玉が飛び出したり 木ギレやガラスがつきささった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ泣き狂っている若いお母さん 右にも 左にも 石ころのように死体がころがっていました。」

そして、演説の最後に、自らの傷をさらけ出しながら、世界に向けて力強く訴えました。
「私の顔や手をよく見てください。世界の人々 そしてこれから生まれてくる子供たちに私たち被爆者のような 核兵器による死と苦しみを 例え一人たりとも許してはならないのであります。」
「ノー・モア・ヒロシマ ノー・モア・ナガサキ
 ノー・モア・ウォー ノー・モア・ヒバクシャ」
この心の底からの叫びは、被爆者の思いの結晶そのものです。

証言の力で世界を動かしてきた、被爆者たちの揺るがぬ信念、そして、その行動が評価され、昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。日本被団協が結成されたのは、1956年。心と体に深い傷を負い、差別や困窮にもがき苦しむ中、「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」という結成宣言をもって、長崎で立ち上がりました。
「人類は核兵器をなくすことができる」。強い希望を胸に、声を上げ続けた被爆者の姿に、多くの市民が共感し、やがて長崎に「地球市民」という言葉が根付きました。この言葉には、人種や骨棘などの垣根を越え、地球という大きな一つのまちの住民として、ともに平和な未来を築いていこうという思いが込められています。
この「地球市民」の視点こそ、分断された世界をつなぎ直す原動力となるのではないでしょうか。

地球市民である、世界中の皆さん。
たとえ一人ひとりの力は小さくとも、それが結集すれば、未来を切り拓く大きな力になります。被爆者は、行動でそう示してきました。

はじめの一歩は、相手を知ることです。対話や交流を重ね、互いに理解し、小さな信頼を重ねていく。これは、私たち市民社会の大きな役割です。
私たちには、世界共通の言語ともいえるスポーツや芸術を通じて、また、発達した通信手段を使って、地球規模で交流する機会が広がっています。
今、長崎で、世界約8,500都市から成る平和首長会議の総会を開いています。市民に最も身近な政府である自治体も絆を深め、連帯の輪を広げています。
地球市民として、共感と信頼を積み重ね、平和をつくる力に変えていきましょう。

地球市民の一員である、すべての国の指導者の皆さん。
今年は、「戦争の惨禍を繰り返さない」という決意のもと、国連が創設されてから80年の節目でもあります。今こそ、その礎である国連憲章の理念に立ち返り、多国間主義や法の支配を取り戻してください。
来年開催される核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議は、人類の命運を左右する正念場を迎えます。長崎を最後の被爆地とするためには、核兵器廃絶を実現する具体的な道筋を示すことが不可欠です。先延ばしは、もはや許されません。

唯一の戦争被爆国である日本政府に訴えます。
憲法の平和の理念と非核三原則を堅持し、一日も早く核兵器禁止条約へ署名・批准してください。そのためにも、北東アジア非核兵器地帯構想などを通じて、核抑止に頼らない安全保障政策への転換に向け、リーダーシップを発揮してください。
平均年齢が86歳を越えた被爆者に、残された時間は多くありません。被爆者の援護のさらなる充実と、未だ被爆者として認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。

原子爆弾で亡くなられた方々とすべての戦争犠牲者に、心から哀悼の誠を捧げます。
被爆80年にあたり、長崎の使命として、世界中で受け継ぐべき人類共通の遺産である被爆の記憶を国内外に伝え続ける決意です。永遠に「長崎を最後の被爆地に」するために、地球市民の皆さんと手を携え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くしていくことをここに宣言します。

2025年(令和7年)8月9日

長崎市長 鈴木 史朗

原爆資料館 掲示より引用

「長崎平和宣言」を読んでいただいたあとに、もう一度。

こんな世の中を
生き抜く武器は
愛の言葉しかありません
この世のすべての問題を
解く鍵は愛です
愛があれば
戦争なんか起こりません

美輪明宏

美輪明宏さん生前のメッセージ(株式会社オフィスミワ 公式サイトより引用)

最後までありがとうございました。

最後に、美輪明宏さんをはじめとした被爆者および戦争犠牲者の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

ころすけ

“長崎原爆資料館パンフレットとおみやげで買ったチャリティーおりがみ”
“包装紙にはやはりハトが!手作り感いっぱいでうれしい”

美輪明宏 公式サイト
https://o-miwa.co.jp/

「青い海と空に励まされた 美輪明宏さん (1935年生まれ)」 朝日新聞「広島・長崎の記憶 被爆者からのメッセージ」
https://www.asahi.com/hibakusha/shimen/nagasakinote/note02-01.html

長崎原爆資料館 公式サイト
https://nabmuseum.jp/

平和公園(平和祈念像・平和の泉)
https://www.at-nagasaki.jp/spot/130

▼「ころすけの旅日記(五島・長崎編)」をすべて読む▼

「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅【③長崎市】 — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その5」
https://bobingreen.com/2026/04/02/20571/

「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅【②五島市 奈留島】 — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その4」
https://bobingreen.com/2026/03/18/20415/

「キリシタンとは何ぞや?長崎の教会群を巡る旅【①五島市 福江島】 — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その3」
https://bobingreen.com/2026/03/13/20261/

「空海さんの足跡を訪ねて — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その2」
https://bobingreen.com/2026/03/06/20064/

「離島に初上陸 福江島 — ころすけの旅日記(五島&長崎編)その1」
https://bobingreen.com/2026/03/01/19653/

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Rin(リン)

ぬいぐるみブロガー、Rin(リン)です。 ライオンのボブ家と愉快な仲間たち、そしてニンゲンのケンイツ園長と一緒に、みどりキャンプ場で暮らしています。 ボブ家の日常を、彼らの視点でつづっていきます。

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